高校・大学・新入社員時代(1960年代)

1960年代は言わば私にとっては青春真っただ中の時代であった。作品を振り返って見ると地味で静かな時代を感じさせる。”怒れる若者たち”の後”団塊の世代”の少し前の我々のジェネレーションは出生が戦中と言うこともあって人工は谷間になっている。高校はバイト(2年生までパン屋さんで配達を朝夕)と受験のための学習が中心で、娯楽は読書とラジオをだった。大学に進めば様々なことを自らやってやろうと考えていた。現役で大学に進んだがサーこれからと言う1年の夏に急性の腎炎を発症して体育は不可の身の上。肉体的には勿論精神的にも消極的になってサークル活動を冷やかす程度はしたものののめりこむまでには至らなかった。必須履修科目の多い工学部では文化系ほどには余裕は無かったこともある。時折スケッチなどで時間をつぶすことがあったが美術サークルに入ってまでの動きは無かった。経済的に完全自立している身では大学での留年は避けなければならないと4年で卒業した。寮に居る連中(経済的に余裕のある奴はまずい無い。当時年収20万の地方の農家から来ているというのも居た。)でも留年するものは何人かいたが私は現状とソフトに調整しながら最短距離を目指していた。就職係の我々のクラス担当の教授が地元の立石電機を紹介してくれて、それにしたがって受験し結果、入社させてもらうことになった。当時の研究員は高卒がメインで大卒は少なく少々大目に見ていてくれたようだ。私は大手の電機メーカを”蛋白尿”を理由にはねられていたのである。


デザインA
デザインB
デザインC
デザインD
デザインE
デザインF
黒谷光明寺
椅子
アオキ
保津川
合掌作り(五箇山)
楽友会館
須磨海岸
吉田山
吉田寮
手提げカバン
運動靴

茶屋之町(芦屋)
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■1960年代の作品






デザインA

高校2年生の美術の時間に与えられたテーマの一つ。高1の時には音楽で、高3の時は?記憶に無いので体育はあったが文芸コースは無かったような気がする。美術の先生は”八戒”先生(三蔵法師に従った猪八戒が何故かあだ名になっていた)で授業中はいつも竹刀を右手に持って気に沿わぬことがある奴には『前進!』を命じ竹刀を見舞うのである。授業はデザインやレタリング系の演習が多かった記憶が残る。デザイン系に余り乗り気でない私も授業となれば作品を作らないと点数にならないので幾つか作品を描いた。これはそのうちの一つ。




デザインB
一連のデザインの一つ。








デザインC
一連のデザインの一つ。











デザインD
遊びで模索中のデザインで何かをまだ纏まりきれない形。こんな絵でも描いている最中は夢中になってたりする











デザインE

貼り絵スタイルのデザインで、コラージュともいえる。当時身の回りにあるチラシや、雑誌の素材から適当にアセンブリーしたもの。手近かなところで間に合わしているのでエキサイティングには出来ていない。











デザインF

これも貼り付けスタイルのデザイン。











黒谷光明寺
黒谷光明寺は吉田山の南東に連なる丘陵の南側に位置する。平安神宮の北裏にあたる。 この絵の石段は大門の東に位置し両脇は墓所になっていて、階段を登りきったところに3重の塔があり、そこから北側に平地になった墓地が連なっている。幕末この寺は会津藩が居を構えたところで墓所の一角には戊辰の役で亡くなった藩士たちの立派な墓がある。大学生の頃、部活にのめりこむことも無く時々バイトする以外は散歩のついでに点けペンで絵を描くのが息抜きの一つであった気がする。ペンで書いたのは手近にあったものを使っただけだった。プロと違って描くフ゜ロセスそのものが心安らぐ時と考えるので仕上がりの結果を予測してなどの計算は何も無い。











椅子

この椅子は寮の部屋にあったもので。入室した時にすでに備え付けとしてあったように思う。雨の日などの時間つぶしに描いたかもしれない。手法的には未熟だがペン画の手法に近い。定規を用いてキッチリ平行な細線を引いて面を表現すれば結構正当なペン画かも知れない。











アオイ

画面が汚れていて花の綺麗さがかなり損なわれているのは少し残念。この頃からアオイの形;すくっと真すぐに立ち上がってビッシリ上から下まで、茎を取り巻いて360度花が付いている。が好きだったような気がする。











保津川

川の流れと岸辺の岩を白黒で克明にスケッチしようとした試み。向かいの斜面の木々にまでは手が廻らなかった様だ。時折ギーコ、ギーコと櫨のキシミ音を立てながら眼前を 速い船足で通る保津川下りの観光船も絵にはしたくなかったのだろう。











合掌作り(五箇山)

当時は村の建物の多くが合掌作りで、この絵のような比較的小さな民家も合掌作りになっていた。











楽友会館

吉田寮の南にあって東大路からすこし東入る。落ち着いた洋館建築で学生の身分では少し近づきがたい雰囲気が漂っていた。











須磨海岸

須磨海岸は今でも関西の数少ない海水浴場のある白砂の海岸。当時この海岸の西端には西神戸の山の砂を使って六甲沖を埋め立ててポートアイランド、六甲アイランドを造成するための砂の積み出しポートがあった。この年の夏はこの地にある病院に短期で入院していた。手遊びにスケッチした一つがこの絵です。









吉田山

吉田山は西を望むと京都大学の吉田キャンパスが足元に広がり、その先に御所の緑、遠くに双が丘の3つの小さな瘤、その背後に嵐山から愛宕山の西の山が見える。北側には北山のたくさんの瘤が並び。背後に廻ると大文字で有名な如意ヶ岳、鹿ケ谷が眼前に見える。






吉田寮

間口一間半、奥行き三間の部屋が一間弱の廊下の片側に8つか9つ並んだ木造二階建ての古色蒼然とした代物。当時すでに熊野寮は鉄筋4階建てが出来ていたが、事が拗れると大学当局に絡む学生寮は気ままにさせて置かれたこともあって、吉田西寮とともに古い形を結果として引き継いでいた。






手提げカバン


高校時代に愛用していた化繊で作られたblue-grayの学生カバンだったと思う。美術の時間の静物課題が出た時に描いたものかもしれない。クロッキー用紙に鉛筆でスケッチしている。






運動靴

当時スタンダードな黒い生地に白いゴムの運動靴。メーカは世界長だったかな?








絵の保存状態が少し良くないのできれいな花の絵としては残念だが。デッサン力としては現在の私とそんなに変わらない。逆に言えばしばらく遠のいていたとは言え現在のレヘ゛ルに留まっているのがやや不甲斐ない。






路地(茶屋之町;芦屋)

この路地には多くの思い出がある。生まれてから18の年まで私の成長をはぐくんだ路地ともいえる。中芦屋の三八通り商店街から東に入る30mポッキリの短い路地。本通りから4mのとこに1段あってどん着きには共同井戸があった水道が来るまでの時代はこの井戸からの水を使っていた。路地では、ビー球、ケンケン、ポンポン、かくれんぼ、フラフーフ゜、竹馬、ボール蹴り、キャッチボール、相撲、バットの素振りとありとあらゆる遊びがあった。19の年に私はこの路地から出て行った。時折は路地に一時的に帰って来ていた。だが、阪神大震災は中芦屋一帯をなぎ倒してしまった。そしてこの路地も跡形も無く消えてしまった。




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